哲学思考事始 「諸行無常元年」宣言

哲学事始 2026:
#1 「諸行無常」という名の最新OSをインストール

note: ナレーション上の”しょこう”はしょぎょう。諸行無常しょぎょうむじょう)」とは、この世のすべてのものは絶えず変化し、とどまることなく移り変わるものであり、永久不変なものは何もないという仏教の根本的な真理です。「諸行(しょぎょう)」はあらゆる現象や存在、「無常(むじょう)」は常(つね)がないことを意味します。

ナレーションの”しょうしゃ”はしょうじゃ。祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり」で有名です。単なる「はかなさ」だけでなく、変化を受け入れることで心の平穏を得る教えです。

 

音声コンテンツをお聴きいただきありがとうございました!

では「諸行無常元年」宣言へ。本文は以下よりご覧いただけます。

諸行無常元年宣言

年末になると、わたしはいつも、なにか妙に区切りをつけたかった。

今年を一言で言うと何だったか。
来年はどう生きるか。
抱負は何か。反省点は何か。

だが年末の私は、どれにも答えられなかった。
いや、正確に言えば、答えは山ほど浮かんだが、どれにも自信を持てなかった。

どの言葉も軽い。
どの決意も仮置きだ。
これだな掴んだと思った瞬間に、指の間からさらさらと落ちていく。

この感覚を、仏教ではずいぶん前から「諸行無常」。

「すべては移ろう、形あるものは壊れ、意味あるものは色あせゆく。そして、正しささえも摩耗してゆく。」


<<諸行無常(しょぎょうむじょう):”Impermanence of all things”–これは2025年末の投稿です≫

私はこの言葉 単純に諸行無常 鴨長明の「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」を、高校生の時、古文で学んで「知って」いた。
だが年末、それを「感じて」しまった。知識と実感の差は、想像以上に大きい。

知っている諸行無常は、長い人生から見れば瞬時の座学での受験用の知識だった。
長い人生経験の中で、諸行無常について、”どうなの”と今、自分から問われてみれば”ああ諸行無常だな”と実感。

その瞬間、私は決めた。2026年を、哲学的思考開始元年にすると

哲学と聞くと、途端に肩が凝る人が多い。ギリシャ語、難解な概念、眠くなる本。
だがここで言う哲学は、そんな立派なものではない。

私が始めたいのは、
答えを急がないことを訓練することだ。

現代は、即答の時代だ。検索すれば答えが出る。AIは突っ込みもする。
沈黙すれば「負け」になる。
迷っていると「遅い」と言われる。

だが、諸行無常の世界で、そんなに早く答えてどうするのか。

 

変わってしまう前提の世界で、
確定させた言葉は、すぐに賞味期限が切れ、形骸化する。
何とかこんな地政学を変えなくては。

哲学的思考とは、「正しい答えを出す能力」ではない。
むしろその逆だ。

問いを問いのまま問い続ける耐久力である。

たとえば、
「自分らしく生きるとは何か」「チームらしく生きるとは何か」
この問いに、即答できる人は多い。

だがその答えは、
五年前の自分にもチームにも、五年後の自分にもチームにも通用するだろうか。
5年後にこのチームに存在するのだろうか。このチームは存在するのだろうか。

哲学は、その不安定さを嫌わない。むしろ、そこに腰をすえる。

今書いていることは、答えを慌てないし、また与えることもでもない。
思想を教えもしないし教えることでもない。
ただ、問いを並べる。

問いは、解決されるためだけに存在しない。問いは、ときに「一緒に生きる相棒」。

2026年も今までと同じように生きる。だが
私は問いと一緒に暮らすことになる、続けてみることにした。

不安定で、面倒で、役に立たないかもしれない。
だが少なくとも、「わかったふり」よりは誠実だ。

諸行無常元年。
これは、賢くなる年ではない。考え続けることを諦めない年だ。

 

「諸行無常」はバグか、それとも仕様か?

  1. iPhoneのアップデートと平家物語

2026年の幕開け。初詣の行列でスマホをいじりながら、「ああ、去年買ったばかりのこの機種、もう旧型か…」とため息をついた人も多いはず。iPhone 17に乗り換えるべきか、これこそ現代版「諸行無常」の最も手触り感のある瞬間ではないだろうか。もし鎌倉時代にヒットチャートがあったなら、堂々1位は『平家物語』の冒頭「祇園精舎の鐘の声…」。あれは単なるポエムではなく、宇宙の「基本OS(オペレーティング・システム)」のリリースノートに聞こえる。にわか哲学者目線で言えば、諸行無常は「万物は流転する(パンタ・レイ)」と説いたヘラクレイトス思想と共鳴しているはずだが、日本の無常観はもっと「ウェット」で「切ない」。エンジニア的比喩を使うなら「この世界は常にデータが上書きされ続けるストレージ」であり、そして多くの人の仕事もまた、このストレージに日々追記し続けるプロセスなのだ。

  1. 「私」という名のテセウスの船

ここでちょっと哲学スパイスを投入。「テセウスの船」というパラドックスをご存じだろうか。これは、もっともらしい前提や筋の通った論理から、どうにも腑に落ちない結論が導き出されるという、頭の中が「?」でいっぱいになる現象のこと。「逆説」「逆理」「背理」とも呼ばれる。ボロボロになった船の部品を一つずつ新品に替えていき、最後には全パーツ総入れ替え。それでもそれは「元の船」と言えるのか?というシンプルで厄介な問いだ。

私の体も同じで、細胞はせっせと日替わり営業中。数年経てば、去年の「私」を構成していた分子たちはほぼ全員退職済みである。

「諸行無常」を受け入れると、「不変の私」なんて設定は完全なるフィクション。つまり、昨日失敗して上司に雷を落とされた「私」と、今コーヒーをすすっている「私」は、厳密に言えば別キャラなのだ。(おお、哲学って意外と価値ありだ)

結論的に言うと。「無常」とは、過去の黒歴史からログアウトし、毎秒ニューゲームでログインし直せるという、究極のリセットボタンなのである。

  1. 「虚無」を「自由」に変換するアルゴリズム

「どうせ全部消えるなら意味ないじゃん?」と思うのは、哲学ビギナーあるある。2026年の私はきっと、その一歩先を目指します。諸行無常を「仕様です!」と割り切ることは、いわば「執着という無駄なメモリ使用率」を劇的に削減する最適化パッチの適用です。

すべてがストリームのように流れるからこそ、今この一瞬の「輝き」が網膜にフラッシュ保存される…これがいわゆる「もののあはれ」。絶景を見て御来光を眺める4K超高精細の映像も、一瞬でバッファから消え、一時的に網膜キャッシュに残り、心のアーカイブに収まるからこそレア価値があるんです。哲学とは、この「消えるファイル」に自分だけの「意味」というタグをどう付けるかのタグ付けバトル…つまり自分VS自分のデバッグ作業なのです。

1. 2026年、私たちは「変化のプロ」にならざるを得ない

2026年の今私たちが立っているこの場所は、この場所のほかもちろん世界の各場所はかつてないほど足場が揺らいでいます。テクノロジーの進化、社会構造の変容、地政学的な変化そして価値観の多様化。昨日までの「正解」が、今日は「システムエラー」になっているような時代です。

私が「諸行無常」という言葉に奮起されたのは、極めて鋭い直感だと自負しています。「諸行無常」とは、単に「寂しいね、虚しいね」という感傷ではありません。これは、「この世のすべての事象は、一定の状態に留まることはない」という宇宙の物理法則原理、いわば「世界の基本仕様」を指す言葉です。

現代風に今、解釈すれば、「世界は静止画ではなく、超高解像度の動画である」ということでしょう。

私(たち)が苦しむのは、動画の中の一瞬を切り取って「これが永遠に続くはずだ」の静止画として保存しようとするからです。その切り取った画像はの外の画像とは違う可能性がある。静止画の写真は「現実のすべて」を映しているのではなく、作り手によって「ある枠(フレーム)」で切り取られたものに過ぎない。フレームの外側には、画像に映っているものとは正反対の現実や、全く異なる背景が広がっている可能性がある。例として、「泣いている子供のアップ(悲惨な状況に見える)」が、実は「大好きな親に抱きつこうとしている瞬間の一部(幸せな状況)」を切り取ったものである、といった例があります。フェークではないが真実をゆがめている。

哲学のスタートラインは、この「保存ボタン」を捨て、ストリーミング再生される現実に身を任せる覚悟を決めることにあり、3現主義に行き着きそうだ、と急いでいる、急がないことの訓練になっていない

2. ヘラクレイトスと鴨長明の「川」のダイナミクス

古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「同じ川に二度入ることはできない」と述べました。川の水は常に流れ去り、次に流れてくる水は別物だからです。同じように、日本の鴨長明も『方丈記』で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と表現しました。

note: ”鴨”をナレーションは”かも”と言っていますが、”鴨””かもの”です

ここで少し専門的かな、「実体(サブスタンス)」という概念を導入します。西洋哲学の多くは「変化しない本質(実体)」を探求しましたが、諸行無常の思想は「実体はなく、あるのはプロセスだけだ」と断じます。いずれにせよ、自らの思想や理論を曲げない姿勢には敬服します。一に忖度、二に忖度、三も忖度の私は、まだまだ「何をか言わんや」という存在です。

具体例を挙げましょう。あなたの「仕事」、それを「〇〇業界の社員」という固定された実体だと思っていませんか?しかし哲学的に見れば、それは日々のメール、会議、思考、決断といった「一連の流れ(プロセス)」の積み重ねに過ぎません。会社という建物も、登記簿という書類も、時の経過とともに摩耗し、書き換えられます。「私は〇〇である」という固定観念を捨て、「私は今、〇〇というプロセスの中で生きている」と考える。これこそが、諸行無常を哲学的に乗りこなす第一歩です。

3. 「執着」という名のメモリリーク

note:メモリリーク

なぜ私たちは無常の世界で苦しむのでしょうか。それは脳内で「執着」という名のバックグラウンドアプリが暴走し、メモリを食い尽くしているからです。仏教哲学では、苦しみの原因を「渇愛(かつあい)」と呼び、喉が渇いた人が水を求めるように、変化するものにしがみつく心を指します。たとえば恋愛。相手が自分を好きでいてくれるという「状態」を固定しようとすれば、相手の心が変わる恐怖に怯えることになります。でも、相手の心も自分の心も、諸行無常の法則下にある「流体」だと理解できれば、その一瞬の重なりを奇跡として味わうことができます。

ストア派の哲学者エピクテトスは「自分にコントロールできることと、できないことを区別せよ」と言いました。諸行無常はコントロールできませんが、それに対する自分の「評価」はコントロールできます。2026年の哲学元年に必要なのは、この「評価のアルゴリズム」を書き換えることなのです。

では#2「哲学事始め2026」でお会いしたく。