I’d like to share with you what I’ve recently started doing to change my way of thinking and perspective.
考え方や見方を変えるため実践していること
Table of Contents(コンテンツ目次)
1.異なる立場や視点から物事を考えてみる
自分の立場や視点から物事を考えることが多いが、それだけでは偏った見方や一般的に人が思っている考え方見方になってしまうことがある。そこで、異なる立場や視点から物事を知るために、自分が持っているテーマについて、あまり読んだことのない出版社、作者の本をちらっと読む、立ち読みをする。自分とは違う文化や背景を持つ人と話をする。これによって、自分の考え方に気づきや疑問を持ったり、他者の考え方を知ることが出来る。
2.自分の感情や思考から距離を置く
自分の感情や思考に引きずられて、物事を感情的に思い込みで判断してしまうことがある。有効な方法は自分の感情や思考から距離を置くこと。これは非常にむつかしい、自分が怒ったり悲しんだりした時、それはどこから来たのか、来るのかをまずメモする。さらに自分が思っていることはいったい、いつ頃自分の中に作られたのか。過去の経験・事実からなのか、仮説なのかを確認する。物事を冷静に判断することは、これによってできるようになった気がしている。
3.新しい経験を試みる
自分の慣れ親しんだ環境やルーチンに固執して、物事を同じように捉え続けることがある。そこで、自分の今まで購入した出版社の本を読むばかりだと、普段しないような行動や選択をしないことが多い。井の中の蛙のまま、ゆでガエルのまま、自分の可能性や限界に気づいたり、物事の多様性や面白さに気づいたりすることができない。
いくつかの出版社から距離を置く
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今まで読んでいたいくつかの出版社からの書物から抜け出る(でも戻ってしまうこともあります)、というよりは、昔、読んだ本、つまんだ本へ突入Back to the Future. 大げさだが徒然草は古典と言えまでの出版社から抜け出るというよりは、読んだ本、つまんるかもしれない。Antique よりコレクティブルかな?「徒然草」は古典ですよね。本棚の整理で見つけた。高校時代の古文の授業でお世話になった「徒然草」だった。予備校でもお世話になった。そこでは本を見ていたが眺めているだけで気を入れて読んではいなかった。見つけた「徒然草」を手にして読みだしたとき、高校時代の先生の言葉を思い出し、第五十二段「仁和寺にある法師」を段末まで読み続けた。
ヒントになった、高校時代の先生の言葉、第五十二段「仁和寺にある法師」は、人生の役に立つぞ
高校時代の先生の言葉、第五十二段「仁和寺にある法師」は人生の役に立つぞ。
ここからは第五十二段の一部抜粋です、“仁和寺にある法師年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり徒歩より詣でけり。極楽寺・高良(こうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。 私も結構こんなこと多発してます。先達はあらまほしき事なり、……………………と念じます。
いまとなってはいい思い出、でも振り返り
徒然草、第五十二段「仁和寺にある法師」の末尾にある「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」という言葉は、現代においても心に響くものがある 。情報過多の令和の時代、私たちは常に新しい知識や経験を求めているようだが、肝心なことを見過ごして、本質から遠ざかってしまうことが多々あるのではないだろうか。まさに「仁和寺の法師」のように、目指すべき場所の途中で満足してしまい、本来の目的を達成できないまま帰路についてしまう、そんな現代人の姿を、私もまた私を含めて見かける。
たとえば、新しいスキルを身につけようと決意したとする。プログラミングの学習を始めようと思い立ち、書店に行けば、初心者向けの入門書から専門的な内容を扱うものまで、無数の本が並んでいる。インターネットで検索すれば、無料のチュートリアルや動画教材が溢れ、どれから手を付けて良いか迷うばかりだ。あれもこれもと手を出しているうちに、結局何も身につかないまま、時間だけが過ぎていく。まさに「極楽寺・高良(こうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり」と、本質である「山」へ登ることを忘れてしまうかのようだ 。そんな時、本当に必要なのは、道筋を照らしてくれる「先達」ではないだろうか。この「先達」は、必ずしも人である必要はない。先人たちの知恵が詰まった古典であったり、信頼できる専門家が書いた一冊の本であったり、あるいは、自分が本当に知りたいことは何なのかを問いかけてくれる、自分自身の内なる声であったりするのかもしれない。
また、現代社会では、多様な価値観や情報が混在している。自分の考え方や見方を変えるために、異なる立場や視点から物事を考えることは重要である。しかし、それらを単に知るだけでは、偏った見方から抜け出せないことがある。自分とは異なる文化や背景を持つ人々と話すことで、自身の考え方に疑問を持ったり、他者の考え方を知ることができたりする。だが、これもまた「先達」がなければ、単なる表面的な交流に終わってしまう可能性がある。相手の言葉を深く理解し、その背景にある文化や価値観を知るためには、相手の心を紐解くための「先達」が必要となる。それは、相手に寄り添い、共感する心であったり、あるいは、異文化を理解するための基礎知識であったりするだろう。
自分の感情や思考に引きずられ、物事を判断しない。
自分の感情や思考に引きずられて、物事を感情的に判断してしまうことも多い。怒りや悲しみに囚われると、冷静な判断ができなくなり、後悔するような行動をとってしまう。自分の感情や思考から距離を置くことは、非常に難しいことではあるが、有効な方法である。自分が怒りや悲しみを感じた時、それがどこから来たのかをメモしたり、自分が抱いている考えがいつ頃自分の中に作られたのか、過去の経験や仮説なのかを確認したりすることで、冷静な判断ができるようになる。これもまた、自分という存在を深く見つめるための「先達」を必要とする。その「先達」は、自己の内面と向き合うための時間であり、静かに自分を見つめ直すための瞑想であったり、あるいは、日々の出来事を客観的に記録する日記であったりするのかもしれない。
私たちは、自分の慣れ親しんだ環境やルーチンに固執し、物事を同じように捉えがちである。同じ出版社の本ばかりを読んだり、同じような行動や選択を繰り返したりしていると、「井の中の蛙」や「ゆでガエル」のように、自分の可能性や限界に気づくことができなくなる。そんな時、新しい経験を試みることは、物事の多様性や面白さに気づくきっかけとなる。たとえば、高校時代に習った古典「徒然草」を読み返すことは、過去の自分と対話する「先達」を見つけることにもなる。昔の自分が感じたであろう感情や、当時の社会背景を想像することで、現代の自分にはない新しい視点を得ることができる。
「仁和寺の法師」が山頂を目指す目的を果たせなかったように、現代の私たちもまた、日々の忙しさや慣れ親しんだ環境の中で、本当に大切なことを見過ごしてしまいがちだ。しかし、少しの勇気と、道を示してくれる「先達」がいれば、私たちは必ず本質にたどり着くことができる。古典を読み返すこと、自分とは異なる人々と心を通わせること、そして、自分自身の内面と深く向き合うこと。これらすべてが、私たちの人生という旅路を豊かにする「先達」となるだろう。そして、私もまた、そのような「先達」を求め、日々の生活を送っていきたいと、改めて心に誓うのです。
まとめ
1.異なる立場や視点から物事を考えてみる
自分の立場や視点から物事を考えることが多いが、それだけでは偏った見方や一般的に人が思っている考え方見方になってしまうことがある。そこで、異なる立場や視点から物事を知るために、自分が持っているテーマについて、あまり読んだことのない出版社、作者の本をちらっと読む、立ち読みをする。自分とは違う文化や背景を持つ人と話をする。これによって、自分の考え方に気づきや疑問を持ったり、他者の考え方を知ることが出来る。
2.自分の感情や思考から距離を置く
自分の感情や思考に引きずられて、物事を感情的に思い込みで判断してしまうことがある。有効な方法は自分の感情や思考から距離を置くこと。これは非常にむつかしい、自分が怒ったり悲しんだりした時、それはどこから来たのか、来るのかをまずメモする。さらに自分が思っていることはいったい、いつ頃自分の中に作られたのか。過去の経験・事実からなのか、仮説なのかを確認する。物事を冷静に判断することは、これによってできるようになった気がしている。
3.新しい経験を試みる
自分の慣れ親しんだ環境やルーチンに固執して、物事を同じように捉え続けることがある。そこで、自分の今まで購入した出版社の本を読むばかりだと、普段しないような行動や選択をしないことが多い。井の中の蛙のまま、ゆでガエルのまま、自分の可能性や限界に気づいたり、物事の多様性や面白さに気づいたりすることができない。